■月■

月　moonlight

10/9/2001(Tue.)　曇りのち晴れ　#4

　今日は暑くなりそうだ、とラジオががあがあと雑音の向こうで告げている。今ここにある危機に関係なく朝は来るのだ。私はその音にゆっくり起きて、井戸で水を汲みざぶざぶと顔を洗った。バケツに残った水は庭にあける。苔がビロードのように土を覆っているのがとたんにつややかになる。石組みの池のあたりに潜んでいた雨蛙があわててぴょんぴょんと飛び逃げる。今年の夏は蝉の声は少ない。あんなにも曇りと雨ばかりだったから。こんなに青い夏空は久しぶりだ。私はうれしくなった。長屋から水浴び用の盥を出し水を張ってから足の泥はねをさっと流し、勝手口から戻った。ぱっと一足踏み込んでも夏は強い日差しのせいで暗い土間に目がなかなか慣れなくて、しばしぼんやり立ちすくんでしまう。しかしその薄暗がりの中、かさりと竹ざるが傾くような音が聞こえてとたんに心臓が跳ね上がる。もしや…。足音を忍ばせて台所へ行くと、まな板の上に猫が乗っていた。くそっまたしてやられた！しっしっ。茶虎の猫はのったりとこちらに目をやって、窓から軽やかに出ていった。口にさっき冷蔵庫から出しておいた干しがれいをくわえこんで。

　まな板をきれいに洗い、味噌汁をさっと作って、かれいの代わりに豆腐竹輪を出して朝食。出かける前にちょうど宅急便が来て良かった。受け取って冷蔵庫へ。それから山のお墓に行って掃除をし、ご先祖様たちに花を供えた。入道雲が遠い山並みのほうにわいてきている。草いきれで汗がしたたり落ちる。見渡す限りの田圃はもうこのまま刈り入れられることはないのだ。風が吹く。まだ青い稲穂波が押し寄せる。

　蚊にさんざん食われ、汗みどろになって帰宅。土間に冷蔵庫があるのは家を汚さなくて実に良いな。駆けつけ一杯でさっき届いたビール。また来た宅急便の受け取りをし、そして朝支度しておいた庭の盥で水浴び。日向水でまるで露天風呂のようなぬくさだ。極楽極楽。体を拭いて浴衣に着替え、そのまま縁側から奥の間に上がって昼寝になだれ込む…。

　１時間半ほどごろごろして夕仕事。まえの畑でいちじくの収穫。椋鳥がだいぶん食い荒らしているが私が食べる分ぐらいは残っている。地球残留者ネットワークから「心ばかり」と熨斗がけされた―ご丁寧なことである。「御見舞い」ではナンセンスだし―ビールと枝豆とお茶漬けセット（私の希望の品だ）が届く。おいおい、今日コレで三度目だ。なんでこんなにいっぺんに届くんだ？ぼやきつつちゃっかりそれといちじくで晩ご飯をすませた。

　夕闇が濃くなる。新月の夜だ。蚊帳をつって蚊取り線香を焚き込め、そのあいだに私はこれを書いている。その瞬間を眠ってやり過ごそう、と提案された強制スリープ法案は人道的に問題があるとして否決され、選択的スリープ法案が通った。ところが意外にもスリープを選ぶ人―のほとんどは月に移動した人たちだった―は少なくて全人口の三分の一にもならず、普通に日常を過ごすことを私も含めて多くの人々が選んだ。だから私にも前と同じにいつもと同じに、朝は来るし夜が来る。月の国際避難センターは地球の姿が直接目にはいることのない場所にわざわざ建てたらしい。月にいるスリープに入っていない人たちで、地球を見ていたい人は見える位置にポッド移動するだろうし、見たくない者はセンターにいれば見なくてすむということだ。私も正直言って、そのときに月を見上げたくはない。月のない今宵あたりが地球の最後であっても構うまい。

　くじ運がどこまでもない私（次点の地下スリープにもはずれた）。遺伝的多様性を保つため、家族もばらばらにくじを引く。はずれたのは私ひとり。自分から進んで残るつもりだった、と告白したらしかし弟は驚きあきれてしまっていたっけ。家族は月に去った。そして、私は今ここにいる。
…両親がこの世にもういなくて良かったのだろうな。

　彗星が空に月のかわりに浮かぶ。彗星明かりで今これを書いている。